正義の名のもとに
お久しぶりです。
Hiroです。
随分と期間が空いてしまいました(*_*;
というのも、8月は実に充実した日々を送っており、さしたる不満もなく、スケジュールに追われ、書きたい衝動が全く湧いてこなかったのです。
はい、言い訳ですね(笑)
しかしながら、生きていれば何かしら思う事は日々出てくるもので、今日は「正義」について考えていたことを吐き出していこうと思います。
正義。正しさとは、何か?
私は、それを振りかざす人間の「都合」であると思っています。
価値観というものは、人それぞれです。
育ってきた環境が違うのだから、同じであるはずがないのです。
人は与えられた環境において、その環境に適応できるように成長していきます。
その成長過程でモノの見方や思考のクセ、行動原理などが決まっていきます。
そうして、自分の中だけでの「正解」が生まれるわけですが、この「正解」を他人に押し付けることで、自らを有利な立場に持ち込もうとする輩が少なからず存在します。
俗に言う、「正義感の強い人間」です。
彼らは思い込みが強く、他者がなぜそう思うのか?行動するのか?まで考えを巡らすこともなく、自分の狭い視野のみを判断材料とし、そこからズレていると糾弾、攻撃します。
そうして、自分にとって不都合なものを排除しようとするのです。
非常に暴力的であり、短絡的で、自己中心的な思考です。
なのに、行っている本人は、正しいことをしている自分は「正義」だと信じています。
子供のため、と言いながら自分の希望、理想、束縛を求める親。
部下のため、と言いながら非効率、理不尽、悪しき慣習を押し付ける上司。
国のため、と言いながら他国民の生活、夢、命を奪う戦争。
立ち止まって考えて欲しい。
自らの求める理想において、不都合なものであっても、それは相手にとっては都合のよいことであり、また、そうなるに至った理由があるものです。
そこに思いを馳せることができたなら、暴力的、自己中心的なやり方とはまた違った、互いを傷つけあわないアプローチを模索し、歩み寄ることもできると思うのです。
自分は正しい、なんて決して思わないこと。
それは正しいのではなくて、自分にとってその方が心地良いだけ。
自らのエゴで他人が居心地悪くなろうとも知ったことはないという鈍感な人間。
そんな人間にはならないように、精進しようと思う秋なのでした(^^)/
Hiro